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【響の軌跡 東儀祐二と教え子たち】(3)宮殿炎上 空襲の長い夜(産経新聞)

 昭和18年、宮内庁楽部に入って3年目の東儀祐二(当時15歳)は、音楽に専念できる状態になかった。ほかの楽部の少年たちとともに東京・小金井にある防空監視訓練所で敵機の機種や高度、速度を測る訓練を1週間積んだ後、宮城予備隊の監視隊員として宮中の防空を担うようになる。楽部で1年後輩だったビオラ奏者の嶋田英康(81)も毎日を祐二とともに過ごした。

 空襲が昼夜問わず激しくなった20年の5月25日深夜、宮中のすぐそば桜田濠沿いにあった参謀本部が空襲を受けた際、火の粉が濠を渡って宮城にある明治宮殿の屋根下通気口に吸い込まれていくのを、祐二と嶋田は見た。

 「お巡りさん、火の粉が吸い込まれていく」

 屋根に上っていた皇宮警察の警察官に大声で知らせたが、伝わらない。やがて建物は銅ふきの屋根から燃えはじめ、少年たちは宮殿内の棚にあったものやシャンデリア、畳までも運び出した。

 翌日未明にかけて建物が焼け落ちるのを「ただ見上げるしかなかった」と、祐二は後に妻の幸に何度も語った。長い夜だった。

 仲間も失った。祐二と同級だった多忠昭の兄で同じく楽部生だった忠博が、当直をしていた建物で空襲を受け死亡。亡くなった仲間の遺体を棺に入れて運び、ろうそくを灯すのも宮城予備隊員の仕事だった。

 終戦の翌年の21年。祐二は卒業まで通常7年かかる楽部を6年で卒業し、楽師として任官する。戦争で多くの楽師が戦死し、足りなかったのだ。しかし、戦後は楽師に定員制が設けられたため、多くの楽師が宮中を去り、オーケストラに職を求めた。

 「もっと勉強をしたい」

 祐二も22年に退官。京都への帰郷を決意した。(安田奈緒美)

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